どうも、本ブログを間借りしているhanmanという者です🙇>
今回は、日曜日の午後にテレビの前で考えていたことを書きます🐤
どっかの民族文化を紹介しているテレビ番組を見た。
科学的根拠の無い儀式的なものを、生活の最優先事項にしている姿に、文明が遅れていると思った。
科学は便利であり、身の回りの現象を予測しコントロールすることができるので、それを駆使している我々の文明は豊かであると。
ただ、その思い込みに疑問が生じた。
科学というものは、学者が自然現象を観察した結果を体系的にまとめたものであり、それを駆使するだけの私は、文化的に進んでいると言えるのだろうか。
他人が生み出した真理らしきものを知っていたとしても、その過程で研究者を突き動かした思想や哲学、実験の過程で見ていた景色を私は体験していない
だから表面的な幸福は得られたとしても、生きる意味など内面的な幸福を育む術を知らない。
このあたりが、発展途上国よりも、先進国の方が、自ら人生を絶ってしまう確率が高い要因となっているのではないか。
その点、自身が培った文化を持つ民族は、自然をよく観察し、自分の存在を自然の一部としてとらえ、自分が納得のいく考え方を伝統や文化という形で実践し、生活している。
いうなれば、我々が
「他者が書いたこの世界の解説書だけを読んで、知ったつもりになっている」
ことに対して、彼らは、
「この世界を自分で観察し、その一部としての自分の在り方を体系づけている」
といえる。
後者の方法で得る知識は、自身の意識の一部となり、外付けではなく身体の中に宿った知識となる。
よって、文化を学ぶということは我々が忘れている、人が世界を読み解く(体験する)過程を理解するための重要な機会である。
世界を読み解く過程を思い出したのなら、外界に飛び出し何かを体験しよう。
どんなことでも、自分との間に発生する真理があるはずだ。
その際、それが万人にとってもの真理であるかは重要ではないし、そもそも科学が真理だとも限らない。
「自分の手で掘り出したということが、その真理に最上の価値を与えるのだ」
以上ここまで、漠然とした壮大な話をしてきたが、つまり何を言いたいかというと、
「ウダウダ言ってないで、何かしろ!俺!」ということである。
小生は、平生ずぼらな性格が故に、料理も、旅行も、キャンプも嗜まない。
どうせ喰うだけ、どうせ景色なんてネットで見れる、一時的なブームだろうと高を括ってごろごろしてる。
そしたら、体験もせずに、知ったつもりで何もしないペシミスト野郎へと成り下がり、せっかくの週末も液晶の前でごろごろしていた次第である。
なら、いっそ、明らかに無駄だと思われることをやってみよう!
幼少期に砂場で、泥団子を磨いていた時の感動をもう一度、呼び起こそう!
そこから、取り出した新しい真理が見つかったら、皆さんに紹介するので、また読みにきてね!
そう息巻いて、とりあえず、けん玉を買いに出かけた日曜日の午後だった。
本記事は、INFJ(提唱者)ブロガーのhanmanが日常生活での空想を基に書きました。
お読みいただき、ありがとうございました!
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